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好吃の一皿一皿は「薬膳=食養」のかたまりです。一般に「薬膳」「漢方」というと、何か薬臭く、病人のための食事のような響きがあります。しかし、本来の「薬膳=食養」は健康を愛するすべての人のための「健康第一」の食事です。はるかなる遠い昔、我々の祖先は食物を探す日々の中で、草や木の葉、花や種、木の実など、「自然の恵み」を最初に見つけ出したのではないでしょうか。そしてそれらを食べ、厳しい自然界を生き抜く知恵を、この「不思議な力を持った植物」から教えられ、それを「薬草」として後世の人々へ伝え残しました。好吃では、まさにこの「薬草」を基本に、魚・貝、豚・牛・鶏、そして野菜…といった地球上のありとあらゆる食素材を組み合わせて、味・香・食養のバランスのとれた料理の創造に努めております。
イタリア料理やフランス料理にも、古くから「薬草=ハーブ料理」といったものが多く見られ、現在再び注目されています。文明社会に生きて、精神的にも肉体的にも健康であることが難しくなりつつある現代人にとって、昔の人の知恵「薬草」は人類の食の原点として見直すべきものではないかと思います。また、日本では年々夏の暑さが厳しくなり、熱帯化が進んでいます。日本の熱帯化に伴い、トムヤンクンやスパイスカレーのような、東南アジアやインド地域のスパイスがふんだんに使われた料理が流行しているのは偶然ではありません。気候の変化に対応し、発汗を促したり、体を発熱させたりするために細胞レベルでスパイスや薬草の摂取を望んでいるのです。「おいしいものは体に好い」が好吃の料理に対する基本姿勢です。2000年の四川文化に育まれた、おいしく力強い料理の数々が、皆さまの元気の素になりましたら幸いです。
好吃には二つの前身があります。一つ目は昭和初期創業の日本料亭「白梅」。大阪が天下の台所と呼ばれた所以、大阪中央卸売市場で取引される鮮度の高い魚と、素材の味を追求した伝統の和食を提供する料亭として長い間親しまれていました。しかし日本が高度経済成長期に突入し、公害問題が勃発。四日市が汚染され、鮮度が命の新鮮で安全な魚が安定して供給されなくなったことを受け、規模を縮小してでも安全で美味しい次の料理をお客様に届けることが私たちの新たな使命になりました。そんな時に出会ったのがイタリアンでした。当時はソースが料理の要となるフレンチが流行していましたが、イタリアンは素材派であるという点で和食との共通項を持っていたからです。そうして、イタリアンといえばナポリタンしか知られていない時代に、イタリアから料理人を招致。好吃の二つ目の前身となるイタリアンレストラン「ピーターパン」を「白梅」と同じ敷地内に開業しました。
ピーターパン開業後、中国では改革開放が起こっていました。毛沢東の社会主義政策で疲弊した経済を建て直すため、中国は国外への人材派遣を積極的に進めていました。そんな時代の風潮の中、かねてより「食文化は別の文化との激突で豊かに発展していく」という考えを持っていたピーターパン店主が、中国から料理人を招致することを決断。四川料理の一級調理人を招き、元日本料亭の敷地内に、イタリアンレストランと同居する形で「好吃」が誕生しました。四川料理はもともとの性質がとてもフレキシブル。移民が多い四川ならではの知恵で、他地域の食文化の長所を取り入れ、短所を修正しながら2000年もの長きに渡り発展してきた歴史をもっています。この稀有な料理は日本の地にまるごと直輸入され、日本の四季折々の食素材や、イタリアンという西洋の香りを得ました。伝統の面影を残したまま好吃に誕生した、世界でたったひとつの「新しい四川料理」をご堪能いただけますと幸いです。
好吃の薬膳のかたまりの料理に欠かせないものは、生命力溢れる力強い味が特徴の野菜達です。彼らの故郷は寒暖の厳しい奈良盆地。時代とは全く逆で、化学肥料、農薬とは縁のない原始農業で育っております。苦労して畑を開墾し、野菜の地味がよくなればなったで、雑草も元気、鳥も、虫も、獣も食べ尽くしにきます。彼らとの争いは日々の格闘技のごとく壮絶を極めます。それでも挑戦するのは苦労が多ければ多いほど後にやって来る楽しみが多いからと申します。
私の実家は奈良。神社仏閣に囲まれ育ち、祖父が残した数寄屋つくりの空間が身近にあり、子供の頃から洋建築より和の稟とした質実剛健の建物に惹かれました。特に私が魅了されたのは見えない箇所に凝縮されたら頭領達のとんでもない智恵です。彼らの智恵は建物を支える大切な役目を果たします。見えない箇所で複雑で幾何学的に力強く木を組み、またある箇所には迫り来る驚きの迫力で棟木を組み、そうでいて決してその姿を誇らない黒子としての存在は建物の守護神とも申せましょう。いつの間にか彼らの精神が私のDNAにすりこまれ、調理を天職と思うようなった時に、畑作業や収穫した野菜の水洗いといった、見えない努力も苦にならず出来たのは頭領達のおかげです。 私の人生でもう一つ忘れてならないDNAへのすりこみは父母の食育です。彼らが教えてくれた食育には日々感謝し、死ぬまで消える事はないと思っております
と申しますのも、私が子供の頃、家の裏畑で父は土を耕し、家族が食べる野菜だけでなく、四季折々の果物を栽培しており、私もそれをよく手伝っておりました。母は収穫したそれらの野菜や果物を調理し、食いざかりの私の胃袋を満足させてくれました。しかし、母の料理が食べられなくなってから、あの時の料理の味は何だったのか、という探究心が頭をもたげて参りました。甘味、酸味、苦味…。本来材料が持ち合わせている味、生命力を壊すことなく優しく丁寧に下ごしらえしていた母の姿は今でも忘れません。母は収穫物たちにほんの少しの手助け(調理)をしただけで絶妙な味を引き出し、その栄養を身体の隅々まで行き渡らせました。時が流れても、私の細胞はそのことを記憶していて、彼らが常に健康に導いてくれたと気がついたのです。
そう開眼してから一念発起。鍬を持ち、身体の記憶の味を求め土作りから原野開墾、五年目で作物はなんとか収穫できるようになりました。今年で土の上に40年目。まだまだ満足できるものではありませんが、小山に昇る太陽と競争するように起床し、野菜を切り取ると、そこからミネラルがほとばしり、それを見るだけで力をもらえます。
片足を畑に置き、もう一歩は調理場に置いた「にわか百姓」ですが、健康第一の野菜を作り、健康第一の食を調理し、皆様方のお身体に届きますようにさらに精進いたします。
好吃 東谷二郎